天性の感覚と緻密な計算で
貴金属の配合から鍛造、
ストーンセットまで行う
チーフクラフトマン
山﨑良明 Yoshiaki Yamasaki
Chief Craftsman
クラフトマン/ジュエリーコーディネーター
天性の感覚と緻密な計算で
貴金属の配合から鍛造、
ストーンセットまで行う
チーフクラフトマン
ジュエリーコーディネーター:(一社)日本ジュエリー協会
ジュエリーデザインアワード入選:(一社)日本ジュエリー協会
静岡県掛川市生まれ。中学・高校とバスケットボールに熱中する。「やりたいこと」が見つからないまま自動車関連企業に就職するもシルバーアクセサリーとの出会いが転機になり、自分で作れる職人になる夢を抱いて退職。貯金をはたき、趣味だった車を手放した資金で専門学校のジュエリー専攻に1期生として入学。ワックス・彫金・デザイン・宝石知識などを学び才能を開花、JJA(日本ジュエリー協会) ジュエリーデザインアワード2008第4部門(新人)に入選を果たす。
推薦を受けアトリエ・フィロンドールに仲間入り。その後も地元や東京の熟練職人達から学び、伝統的な貴金属鍛造、他ブランドの修理までその技術は幅広い。ハイレベルな技術が要求されるオーダーメイドジュエリーの製作を手掛ける精鋭クラフトマン。
今はジュエリークラフトマンとして充実した気持ちで仕事をしていますが、両親が会社員・専業主婦のごく普通の家庭に生まれたため、学生の頃はジュエリーに接点がなく、現在の自分を想像することはできませんでした。
高校の3年間で『やりたいこと』を決めるのは自分にとって本当に難しく、卒業する時には将来の具体的な目標や進路が決まっていませんでした。とはいえ、社会人になる以上働かなければと自動車部品会社に就職しました。勤務は製造工場で、夜勤を伴うラインでの作業です。車が好きなため、その一部に関わることは不満ではありませんでした。仲間にも恵まれ、お金を貯めて欲しかったスポーツカーも購入。それなりに楽しい社会人生活を送っていたと思います。
ところが、昼も夜も毎日同じシーンを眺める作業はつい考え事をしてしまう時間も多く、「自分はこのままでいいのか」ということが頭に浮かんでは消えていきます。年月が経つにつれてその回数は増えていき、気がつくとあっという間に5年が過ぎていました。「何とかしたい」という気持ちと「このままでいい」という気持ちが、常にバランスをとって闘っていたような気がします。これから先も続くであろう仕事に疑問を持つことも、今の生活や仲間と別れてまだ見ぬ世界に飛び込むことにも不安があります。
そんな生活の中、興味を持ち始めたものの一つにシルバーアクセサリーがありました。最初は身につけるところから始まり、コレクションして満足していたのですが、そのうち「どうやって作るんだろう」と考えるようになりました。シルバーアクセサリーブランドがいくつもできると同時に、クリエイターが有名になる場合もあり、ぼんやりと「自分で作れたら楽しいだろうな」という思いが生まれてきました。
思いは繰り返す毎日の中で少しずつ大きくなっていきました。過去を振り返って自分をよく見つめてみると、クルマをいじるのが好きだったり、手先を使い何かを作ることが好きだったことに気づいてきたのです。思えば、昔から机の上で空想するよりも実際にやってみることの方が好きでした。きっかけが見え始めてからはどんどん気持ちに拍車がかかっていき、興味も強くなって行きました。膨らんだ気持ちが抑えきれなくなり、23歳の時、ついに仕事を辞めてジュエリーやアクセサリー作りを勉強することに決めました。「本当にやりたいことを仕事にしたい、そのために勉強したい。」 初めてそう思えたからです。
それまで大切にしてきた車も資金に変え、貯めたお金を全て使い、ゼロから始める気持ちで専門学校に入学しました。まわりはほとんど年下で、早いスタートではありませんでしたが、いろいろな才能を持ってジュエリーに向かう仲間との毎日はとても刺激になりました。シルバーアクセサリーとジュエリーがつながっていて、貴金属を使うジュエリーにはさらに複雑な世界があることも学びました。
将来への思いが決定的になったのは、学校が主催する作品展での出来事です。自分の作ったジュエリーをお客様がお金を出して購入してくれて、その上「すごい、こんなのどこにも無かったよね!」と喜んでくれました。その顔を見た瞬間、苦労して作った時間が全て報われたような気がして、『自分の作品で人がずっと楽しい気持ちになる仕事』の素晴らしさを実感しました。また、在学中にJJA(日本ジュエリー協会)ジュエリーデザインアワードに入選し、全国のデザイナーやお客様に評価される喜びにも目覚めることができました。自分の人生を賭ける『やりたいこと』は、やっとゆるぎない形になりました。
とはいえ、そのまますぐクラフトマンになれるほど甘くはありません。専門学校の卒業が迫り、就職先を探し始めたところで壁にぶつかりました。ジュエリー加工で募集があるのは、大量生産する工場しか見当たりません。今は多くのジュエリーが大規模なメーカーによって作られているため、また行き先は工場。就職難の時期だったため、それさえもごくわずかでした。加工での就職を諦めた友人達が販売員として就職していく中、絶対に妥協したくないと粘り続けていました。それが副校長の耳に入り、緊張しながらフィロンドールの扉を叩いた時の気持ちを懐かしく思い出します。
お客様の理想を叶える仕事は、工場のマニュアル通りに普通のジュエリーを作るのとは全く違った苦労や、予想しない出来事が起こります。それでも『お客様からいただく課題の大きさは、希望の大きさだ』と思うと職人魂が昂ってきます。それが自分の好きなことであり、選んだ道です。楽ではありませんが、『一人ひとりのために特別なものを作る』という理想を叶えられる環境を誇りに思っています。
何気なく手にしたジュエリー、アクセサリーが自分の運命を変えてくれたように、自分の作った一品で誰かの運命を変えるほどの感動を届けられたら…と思いながら、毎日心をこめて彫金机に向かっています。